この世界のあちこちの片隅の東京心覚、あるいは私が演劇と和睦するまで

概要

2021年3~5月にかけて上演されたミュージカル刀剣乱舞東京心覚の、1部の感想をまとめました。全7章。約2万字あります。
※パライソ未見の時点(2021/11/24)でぷらいべったーにアップしていた感想です。はてなブログに投稿するにあたって加えた多少の修正と追記した部分以外は概ね同じ内容です。

はじめに

東京心覚の感想を書くつもりは、最初はありませんでした。他の方の感想も積極的には読もうと思いませんでした。なんでもかんでも言語化し、言語化されたものを読まないと気が済まないタイプなのでこんなことは初めてで、戸惑いながらアーカイブを見る日々を過ごしていましたが、急に思い立って感想をまとめることにしました。この演目を見て感じたことを言葉にするのに、私にはそれだけの時間が必要だったのだと思います。
 いきなり「演劇と和睦するまで」なんて大きく出たけれど、明確に嫌な思い出があるとか特にそういう話ではないです。ただ、感じたことや考えたことをまとめていく上で、「演劇」に思ったより心の距離を感じていたこと、それがこの演目を鑑賞したことで変化したことに気付かされたので、いち個人の物語体験として捉えてもらえればと思います。文体とかまとまりとかいろいろめちゃくちゃですがご容赦を。つまり9割5分が自分語りです。これは問わず語り、聞いてほしかったひとりごと

 

目次

  1. 特命調査天保江戸との共鳴
  2. 『歌わずにはいられない』こと:創作賛歌を超えた生命賛歌と死(=無になること)への恐怖
  3. センチメンタルな私を「見つけてくれた」こと
  4. 「わっかんねー」演目への是非と原作ゲームへの原点回帰
  5. ド直球にコロナ禍を意識したセリフ群
  6. 気になる点
  7. 刀剣男士別・シーン別感想

 

1.特命調査天保江戸との共鳴

『東京心覚』のタイトルが発表された当時、「なにそのオサレなアニメみたいなタイトル!?なんか新しそう!『東京』ってどゆこと!?」「なんか水心子センターにいない?お前主人公なのか?」と興奮すると同時に、特命調査天保江戸という物語を愛しているので、「なんで素直に天保江戸やってくれねぇんだよぉ!」という気持ちも同じくらい強くあった。公演前までは、まさか蜂須賀虎徹をハブにして天保江戸をやろうとしてんじゃねえだろうなと悶々としていた(初日に「わっかんねー」がトレンドを席巻した時にそれは大丈夫なのか?と思うと同時に、わっかんねーということは完全オリジナルストーリーなんだな、良かったと安堵していたのは内緒)。
 不安と期待を胸に配信を視聴を始めて約15分、清麿の口から発せられた『水心子』で一瞬で頭の中が真っ白になった。なに……?なんか今純度5000%の愛情が結晶化したような声が聞こえた気がする。なん……? この感覚、覚えがある天保江戸でお迎えした清麿を本丸でつついて「水心子はすごいやつなんだよ!」で吹っ飛ばされた時と同じだもうこの時点で完全に頭がおかしくなって、初見時は「開始15分で推しと親友が約束タワーを樹立した」みたいなツイートをした記憶がある。こんな、推してる関係性をこんな、あまりにも透き通った美しく可愛らしいサウンドと豊かなイメージに満ちた歌詞で表現してもらえること、ある????前世の私がめちゃくちゃ徳を積んだ高僧だった可能性がある。
『君はそこにいる』と清麿が本体を掲げるシーン。(ミュ本丸で天保江戸をやったとは明言されてないけどそうだと仮定して)天保江戸ではとにかく水心子を先に本丸に行かせたがった(=そばから離れようとした)清麿だけど、親友の存在を守るために奔走する彼を目の当たりにして、『踏む地あればこそ居場所見失える』と実感したのかもしれない。新々刀の祖たる刀工水心子が繋いだ刀の歴史の先にいるのが源清麿だから、清麿の存在それこそが水心子正秀の存在証明であるといっても過言ではない。今度は「君はそこにいるよ」「君の存在証明そのものである僕がいつもそばで見てるよ」と言い続けることで、あやふやになりかけた水心子の輪郭を描きなおそうとしてくれてるのかななどと考えて天保江戸のオタクは早くも限界を迎えた。『始まったら終わる』『終わったら始まる』繰り返されるこのフレーズには、何かを悲しんでいるような水心子の歌声もあいまって、刀が必要とされなくなったからこそ古刀に復古せよと唱えた刀工水心子によって新々刀の歴史が始まり、その始まった歴史も廃刀令によって実質的な終わりを迎えるそんなイメージも重なり、そしてなにより『心もあれば 魚も棲むかもしれないよ』が刺さりすぎた。水心子という美しい水に棲むお魚の清麿くん……………………………
 そうやって大満足しながらも「やっぱり天保江戸が見たかったな」という思いがないでもなかったが、2部MCで清麿が「蜂須賀虎徹がいろいろ教えてくれたんだ。彼は親切だね」って言ってくれて成仏した。蜂須賀は優しく親切で、そうありたいひと……あの本丸でも、蜂須賀との友好が確かに結ばれているんだ……(噛みしめる)。特命調査天保江戸は、ともすれば一瞬で壊れてしまいかねない立場に置かれた三振り(+一振り)のあいだに存在する、濃やかな敬意と思いやりの話であったと思っているが、東京心覚はその精神を確かに受け継いだ物語になっていた。だから、僕はそれでいい……

 

2.『歌わずにはいられない』こと:創作賛歌を超えた生命賛歌・死(=無になること)への恐怖

 ひとつ選べと言われても選べないくらい好きなシーンはたくさんあるけれど、無条件で涙が出そうになるのはM7要となる城 気付く歌。『人はなにゆえ歌うのだろう』『心に留めておけぬから』それは『雲から溢れこぼれ落ちる雨のように』自然なことだと歌う、もうこれだけで泣きそうになってしまう。きっと人はそうやって有史以前から歌ってきたけど、そのリズムをもう誰も覚えていないし記録にも残ってないんだな……と考えて寂しくなることが時々あったのだけど、東京心覚を見てからは、それでもたしかに我々の祖先が心のままに歌った歌がこの大気を震わせたことがあって、その空気を吸って私は生きていて、彼らと同じように歌うのだななんて考えるようになった。誰かの歌った歌に宿る息遣いに揺れ動き迷う心を励まされ、時に涙して、知らない世界を教えられて、そして人と自分とは違うと気付かされて……まさにそうやってさまざまな物語に生かされてきた人間にとって、これは生きていることのよろこびそのものを歌う歌に他ならない。刺さらないはずがなかった。これが人である道灌と人ではない五月雨のデュエット曲なのもあまりに良くて言葉が出ない
(これは自分語りの極みでかなり恥ずかしいのだけど、私は天保江戸がきっかけで本格的に二次創作小説を書き始めた人間で、それまでもちょこちょこ書いてはいたけど作品が完成することの方が珍しかった。それが水心子と清麿に出会ってから自分としては異様といえるペースで書くようになって、そういう『心に留めておけぬ』衝動を感じる原動力となったふたりの出ている演目で、これほど伸びやかにそのよろこびが歌い上げられたことに、勝手に感慨深くなってしまう)(M3『ほころび』が頭から離れなくて、気がついたらSSを一本書いていた。出来上がったものは普段なら絶対書かない・書けないようなテイストでまた驚いた)
 これに対してM17はなのうたからは、いうなれば極限まで凝縮された死(=無になること)への恐怖を感じた。各々が『荒れ地に咲く一輪の花』『慎ましく咲く黄金色の花』『汚泥に染まらぬ穢れなき花』へ捧げたこの人生を意味のあるものにしたい、死ぬ瞬間にそれが実を結ぶかどうかなんてわからないから、そうであってほしいと叫ぶしかできない。まさしく『あだ花では終われぬ』とのたうち回る人間の叫び、渇望。「鉄」という言葉でさえその響きを喪うことへの恐怖。刀剣男士と接触して後世の自分をある程度知っている将門公ですら、我がはなのうたよ、轟け、力の限りと絶叫せずにはいられない。自分がこの世に存在したことがなくなるわけじゃないと頭ではわかっていても、怖いものは怖い。天海に粛々とつき従うお坊さんたちが、このときばかりは感情をあらわにして地べたでもがき苦しんでいるのを見て、ああこの人たちも人間だったんだと胸が締め付けられる思いだった。これほど激しいものでなくても、「自分が死んだらあとに何が残る?」と考えたことはきっと誰しもあって、だからこそ『歌わずにはいられない』という叫びはなによりも説得力をもって響く(子供のころ、眠ったら今日自分が何を考えていたのか忘れるのが怖くてわざわざ起きてノートに書き留めるという妙なくせがあったけど、今考えるとこれも広い意味での死=無になることへの恐怖だったのかもしれないなと思う)。刀ミュのいままでの公演では、北へ逃げるよう導かれたり今わの際によく生きられましたねと手を取ってくれる存在がいたりすべてを受け入れて銃弾に倒れるまでを緻密に描いたり、さまざまな「死」が描写されてきたけれど、心覚はそこからさらに一歩踏み込んで、人間が死ぬ瞬間に噴出するあらゆる感情、純粋な死への恐怖を描いているのだと思う(メタになるけど、これは現代の日本人が今まで感じたことのない明確な「死」への恐怖に晒され続けている昨今の状況と無関係ではないと思う)。これぞカタルシス(悲劇などを鑑賞することによって鬱積された感情が解放される)といった趣がある。
 時代がごちゃ混ぜになっても、人間という生き物が逃れられない死への恐怖に惑うさまは変わらない。その中に降りてきた刀剣男士は一瞬だけ同じ場所に立つけれど、すぐに舞台装置が回転して人間たちはフレームアウトしていく。立っている場所はとことん違うという演出は、『私は刀、貴方は人。違う存在なのだ』という水心子の本丸セリフを連想させる。また、このシーンを見ていると思い出すのが、こうの史代この世界の片隅に』の『生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居ってものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある うちはその世界の器としてこの世界に在り続けるしかないんですよね』というセリフ。もちろん文脈は異なるけれど、名が残る残らないにかかわらず記憶の器で在り続け、連綿と続く人間の生と死の営みが永遠に続くように守ってくれている、終わりなきはなのうたを聞き届けてくれる刀剣男士……そんなイメージが浮かんでくる。それはまさに私が刀剣男士という生き物を愛しいと思う気持ちの根幹にあるもので、すごくこのこうエモみの極みというかたすかります(急速に死ぬ語彙)。

 

3.センチメンタルな私を「見つけてくれた」こと
『次に降る雨はその昔 恐竜の流した涙かもしれない 河童の皿を潤したかもしれないし つわものたちの汗を流したかもしれない もしかしたら畔に囲まれ稲穂実らせ もしかしたら鳥居を濡らす禊の雨』『もしかしたら最上川の流れを早くしたかもしれない』
 M13『次に降る雨』=号泣ポイントその2。先述したもう残っていない太古の歌のしらべもそうだし、あるいは私が小さい頃に暮らした家のことを時々思い出して「今はもうないあの家に帰りたいなぁ、もっとしっかり目に焼き付けておけばよかった」なんて考えること、あるいは中学の理科の授業ですべての物質は原子というものすごく小さな粒子で構成されていて私達の身体も例外ではなく、いままさに指を擦り合わせたりしたそこから原子がこぼれ落ちているという話を聞いて「じゃあそのこぼれ落ちた原子はどこに行くんですか?」と質問したら「それは、最終的には海に流れつくんだろうね」と先生が答えてくれたのがずっと心に残っている(※これが科学的に正しい知見なのかはわからないです)こと、またあるいは宇宙のしくみ的な子供向けの本で「地球はあと五十億年くらいしたら膨張した太陽に飲み込まれてなくなる」という事を知って、いまちっぽけな私が楽しいと感じていることもつらいこともいつかはすべて無くなるんだと思うと、気が遠くなるようなスケールのデカさに救われたこととか、そういう他人と共有するにはひどく個人的で「センチメンタルすぎ」と一笑に付されてしまいそうな(それが当然だと思う)、取るに足らない記憶の断片や子供の頃抱いていた不安だった気持ちのようなものを見つけてくれて、声高にではなくそっと肯定してくれたような、それは大切にしてもいいものなんだよと言ってくれたような、そんな気持ちになる。魂に直接効くヒーリング。心が覚えてる景色、耳の奥で燻る歌、まぶたの裏で揺れる残像……
 都会vs田舎の対立構造の、「都会」の象徴としてしばしば複雑な感情が向けられがちな「東京」という土地からいったんそのステレオタイプを取り外して、誰かが愛し守ろうとしたひとつの街として描いたところもこの演目の良いところのうちのひとつだと思う。私の住む土地にもこういうドラマがきっとある。誰も覚えていないかもしれないけど、住宅街や田んぼやビル街の片隅にある石碑とかに、そういう記憶がきっと宿っている。素直にそんな気持ちにさせてくれる。

 

4.「わっかんねー」演目への是非/原作ゲームへの原点回帰 
 東京心覚の感想ツイートなどを見ていくうちに、「事前知識がないとわかりづらい」とか「歴史を知らない人にはわからない」とった意見をいくつか見かけたが、それははっきり事実とは異なると私は思っている。なにしろこの演目を見る前に私が持っていた歴史に関する知識は、
将門 なんかめっちゃ祟る
道灌 「みのひとつだに~」の歌は聞いたことあるような…(視聴後にぐぐって古典の授業で習ったのを思い出した)
天海 =明智光秀だったりそうじゃなかったりする
勝海舟 Q.江戸城無血開城の立役者とは、つまり何をしたということですか? A.江戸城を無血で開城したということです(正秀の刀所用の逸話は知ってた)
冗談抜きでこんなんだった。もともと日本史が苦手で刀にも詳しくなく、原作ゲームをプレイする時もセリフの意味を調べたり調べなかったりした結果、非常に局地的な知識しか持ち合わせていない。それでもこの演目を楽しむことができたのは、「受け手の知識レベルに依存しない、普遍的な心情の表現に重きが置かれているから」だと思う。
 たとえば、道灌を斬った豊前が『この人にも、なんか歌ってやってくんねえか』と言うのに、五月雨が「ほろほろと山吹散るか滝の音」という句で応えるシーン 。私はこの句を知らなかったので、これ以前のシーンで道灌が山吹を手渡されていたり山吹を手向けられているのを見て山吹=道灌を象徴する花?となんとなく思い、その山吹がほろほろと儚く散る様と道灌の死を重ね合わせているのかな(ここまでが劇中の理解)→視聴後に句意(風もないのに、轟々とした滝の流れに山吹の花が散っていく)をググって、ああ轟々とした歴史の流れに散る山吹=道灌を悼む意味で五月雨はこの句を捧げたんだなと思う→さらに他の方の感想で風=豊前、つまり道灌が死ぬのは豊前のせいではなく滝=歴史という大河の流れだ、ということを言いたかったのではないか?というのを見てほげーー!!となるという流れで受け止めた。
 そしてここで重要なのが、この五月雨の意図をおそらく豊前は「理解していない」こと。さらに後のシーンで『言わぬが花の吉野山、です』という言い回しに何だって??ってなってるくらいだから、この句の意味を豊前はたぶん知らない。つまり、豊前が風で道灌が花で……なんていう慰めの意図があったとしても、それはきっと伝わっていない。でも五月雨は豊前を気遣っているし、その気遣いは豊前にしっかり伝わり、五月雨が道灌を悼んで歌ってくれたことに感謝している(それが表情や身振りで表現されている)。極論、私が句意を調べなかったり豊前が風で道灌が花でみたいな考察を見ずじまいだったりだとしても、ここさえわかればそれで作り手の趣旨は過不足なく伝わっている。これは「相手のことが100%理解できていなくても、ひとはいたわり合うことができる」というメッセージなのだと思う(混乱する水心子の『コマ送りのようにくるくると、時代が変わる』感覚を『わかるわけないよ』と言いながら『でも清麿も心配だよね』と言える桑名のシーンでも同じように感じた)。このシーンひとつとっても相当システマティックに、かつ理解の深度にかかわらず一番肝要なことは伝わるようになっている。 
 またこれに関連して、『言わぬが花の吉野山、です』という言い回しについても考えてみる。これは地口といって「よく使われることわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作り替える言語遊戯(デジタル大辞林)」であり、要は「言わぬが花(口に出して言わない方が味わいもあり、差しさわりもなくてよい)」に花の名所である吉野山をくっつけて語呂を良くしただけの、いわば特に意味の無い言い回し。つまり『あの歌、どういう意味なんだ?』と問われた五月雨は、もともと意味を持たないこの言い回し(七五調なのも五月雨というキャラによく合っている)で応えることで、『私があの方から感じた調べ』を口に出して豊前には伝えず自分のうちに留めておいたということになる(もちろん初見時にここまで考えて見られたわけじゃないけど、芭蕉ガチ勢の五月雨は句意の解説にうってつけのキャラなのにあえてそうしないのは、歴史や俳句の知識を要求しない、見て感じたままを持って帰ればいいタイプの演目なんだな、と了解し肩の力を抜いて鑑賞できた)。
 本当に劇中で登場する俳句の解釈や歴史上の人物の詳細をあらかじめ知らないと本筋が理解できないのなら、もちろん劇中で解説があるべき(まさにずっとそうして来たのが刀ミュ)。だけど、そういう構造にはなっていない。彼らがこの演目でどういう位置づけなのかは、「江戸の町に城を築いた(道灌)」「江戸を三百年続く安寧の地にするために結界を張った(天海)」「江戸だけでなくこの国全体を守るために結界を広げた(勝海舟)」「新皇を名乗り反乱を起こした(将門公)」と、すべてきちんと言葉で説明されている。道灌が”有能すぎて主家に疎まれ暗殺された悲劇の武将”という歴史を知らなくても、一緒に汗をかいて笑い合った、皆に慕われる人物である道灌を殺さねばならない豊前の心情、それを気遣う五月雨の思いは理解できるようになっている。まさしく言わぬが花=「口に出して言わない方が味わいがある」という言い回しの通り、言葉での説明を最小限に抑え、言葉という「線」の外側にあるものを表現することに挑戦している(ミュージカルという歌の力に乗せて表現する形式もこの挑戦にプラスに働いていると思う)。一見雰囲気のようでいて、雰囲気でなんとなく書くなんて絶対に不可能な脚本だと思う。
 繰り返しになるが、題材となった歴史や人物についてずっと手厚い解説を欠かさなかった刀ミュが、東京心覚では明らかに意図的に情報を絞っているのは、「将門ってめっちゃ祟るやつでしょ?こわーい」「道灌って有能なのに上司に裏切られたかわいそうな人だよね」みたいな、「線」を引いてそこに現れる図像だけを見ることではなく(水心子が地図上に引いた線はぐにゃんと歪んで意味をなさなかった)、人物たちがどんな「想い」で生きていた「人間」だったのかを観客に体感してもらうのが狙いだったのではないかと思っている(『重要なのは、《想い》の方だと思ったんだ』)。これは、三日月的「歴史の中で悲しい役割を背負わされた人」メソッドへの自己批判なのではないかと感じている。三日月の優しすぎる優しさは、ある意味ではそういう線や枠の中に人を勝手に当てはめる行為だと言えるこの側面についてはっきり指摘したのが将門公で、そして太陽と月の二項対立なら月に属する側に味方せざるを得ない三日月とは異なり、それを映す水・流動的である水心子なら、二項対立から外れた視点から歴史を捉え直すことができる。小さな川のせせらぎをいずれ奔流に飲み込まれるものとして憐れむのではなく、その美しさに心傾けることができる……という流れだったのではないかと思う。
 さらに、M18問わず語りの歌詞や、天海と道灌が『そのうちわかるときが来る』『それはわしだけのものじゃ。涅槃へ持っていく』と水心子の問いに答えないことからも、大切なことは覚えていてほしいだけでなく自分だけのものにしておきたかったり、あるいは忘れてほしかったりすることもある、というメッセージが読み取れると思う。葵咲本紀の御手杵と貞愛のデュエットで提示された、「俺がお前のことを覚えていてやるからお前は存在し続ける」というアンサーから、東京心覚はさらに一歩踏み込んでいるように感じる。 
 そういうシーンをこれでもかと積み重ねて、最終的にはM17はなのうたのこれまでのすべてのシーン・語られた要素を凝縮したような圧倒的な迫力に収束し、M18問わず語り『聞いて欲しかった ひとりごと』でこの演目は〆られる。初見時はものすごくびっくりして、エッあっ今までの2時間全部ひとりごとだったの!?めっちゃ突き放すじゃん!?!?ってなった。けれど、同時にその突き放される感覚は意外なほどに心地よかった。たとえ私がこの演目をわっかんねーなこれで済ませてその後の人生で一度も思い出さなかったとしても、「聞いてくれてありがとう」という微かな声が背後から聴こえてくるような、そういう、理解を強制されないというかこれはひとりごとだからわかってもらえないこともあるだろう、それでいい、君を尊重するよ(でもなにかひとつでも感じるものがあればいいなあ)という『願い、祈り』を感じた。東京心覚はわっかんねーなこれと思うことや人を馬鹿にしたり否定したり切り捨てたり、「信頼してるから言わなくてもわかると思った」と言わんばかりの説明を放棄した態度を取っているわけでは決してない。むしろその逆で、わからないのが嫌だから事前知識入れてから見る、歴史ガチ勢だからなるほどね!あの伝説ね!と納得しながら見る、演劇ガチ勢なのでこの演出方法は……と考察しながら見る、ただ見たまま感じたままを受け取ってそれ以上は調べない、ネットを駆使して調べまくってそういうことだったのか!と合点する、よくわかんなかったから他人の考察見てなんとなくわかった!と思う、そのどれもを否定していない。『みんな、なにが正しいかなんてなんてないんだ』から。
 そして東京心覚は、ある意味でゲーム刀剣乱舞への原点回帰なのだと思う。私は歴史や刀への興味からではなく、刀剣男士という信頼できない語り手の語るセリフから男士どうしの関係や元の主へ向ける心情を推察したり、修行から帰ってきても大事なことはほとんど話さない男士はなにを考えているのだろうと考えたりするのが好きでゲームをやっているのだけど、東京心覚はそれと非常に似通った手触りを感じる演目だった。
 しかしやはり、これまで「1部はわかりやすく、2部はなにも考えず楽しめる」を売りに支持を集めてきた刀ミュが、本公演でこういう形式の演目を上演するのはかなり思い切った行動であることも確か(歌合にすべてを語らない形式の原型はあるので、急に生えてきたわけではないと思ってはいる)。観劇料や配信料を支払わせて提供するエンタメを「これは聞いてほしかったひとりごと」で締めるの、かなり勇気がいると思う。豊前と桑名以外が初出演、6/8が2018年以降実装の比較的新しいキャラ、言ってしまえば「推しがいなければ見向きもしない」という客層も多くいるであろう2.5次元、そして言わずもがなコロナ禍による深刻な打撃。ただでさえ動員数や興行収入に不安要素しかない中、よくこんな挑戦的なことをやれたなと思う。その挑戦と勇気を、心から称えたい。その挑戦があったからこそ、東京心覚という演目に出会えたことを嬉しく思う。君の想いは届いてるからさ君の決断を尊重するよ……。そもそもみほとせ初見時は2.5次元で子役立てるのってありなんだ!?ってかなり驚いた記憶がある。もうそのころからずっと新しいことに挑戦してきたコンテンツなんだと思う。ゲームの回想を2.5次元俳優を使って再現するだけなら、そもそも舞台にする必要もない。刀剣乱舞というゲームじたいがあらゆる楽しみ方を想定して作られていると思うし、それに堪えるプラットフォームであると思っている。メディアミックスであるからこそ、ゲームで「誰々の刀」と規定されることでキャラ設定を詰められる代償として、他にも所持した人はいたのにその要素は取り入れられないみたいなところにも焦点を当てられる(水心子と勝海舟の絡みが嬉しかった審神者)。これからも原作に出てきてない戦いや人物をメインに据えた、言うなればオリジナル(というのも変な表現だけど)ストーリーをどんどん作ってくれることを期待している。

 

5.ド直球にコロナ禍を意識したセリフ群
 私が刀ミュを見始めたのは、去年の無料一挙配信がきっかけだった。最後に劇場で観劇したのは学校の文化鑑賞プログラムというレベルで演劇にまったく馴染みがない人間だったので、おそらくそれがなければ一生見ることはなかったと思う。そもそもライブというものに苦手意識があったのもあり、2部で観客が楽しそうにペンラを振ったりファンサに喜んでるところを映像という”外側”から見るのは好きだけど、自分があの場にいると仮定するとどうにも尻ごみしてしまうというか、「座って静かに見たいな……」という気持ちになるので、現地で見ることはないだろうなと思っていた。コロナ禍があってもなくても配信、よくてライブビューイング止まりだったと思う(そもそも禍がなければ無料一挙放送は行われず、刀ミュに触れることもなかったと思うと、複雑な気持ちになるが)。
 そういう、演劇そのものにそれほど思い入れがない人間であるせいか、水心子が流れ落ちる砂に向かって語りかけるクライマックスのシーンでは、どう受け取っていいのか困惑する気持ちがのほうが強かった。そもそも劇場に行く予定がないので、多くのファンが感じていたような「劇場に行けなかった人のことも肯定してくれているんだ」みたいな感動は当然湧いてこない。現実のこととも劇中のこととも解釈できるならともかく、どう聞いてもコロナ禍について喋っているとしか思えないセリフは比重が現実に寄りすぎていて意味が通らなくなっているのでは?と感じたし、「コロナ禍とそれを取り巻く現実を一時でも忘れたくて演劇という虚構に浸っているのに、どうしてそんな話をするんだ」とさえ思ったし、もう本当に言葉を選ばずに言えば「これは演劇というものの自己憐憫なんだな」と、それ以上のものには思えなかった。しかし演劇業界がこれまで深く深く打撃を受け幾度となく理不尽に傷つけられてきたことを思えば、その自己憐憫的な振る舞いを誰が責められよう……と、一種同情の念を抱きながら迎えた大千秋楽。カーテンコールで観客とお互いに拍手し合った豊前が『立派な戦いぶりだったぜ、主!』と言ったあの瞬間、東京心覚からそういった要素は全く消失し、「傷つけられた被害者で、己を慰めることしかできない哀れな演劇業界」と「同情しその肩を持つファン」ではなく、共に支え合う対等な立場の・めちゃくちゃ存在している、『どこかで頑張っている子』どうしになれたのだと思う。配信当時、会場から悲鳴のようなすすり泣きが聞こえてきたのが未だに忘れられない。そりゃあんなこと言われたら泣いちゃうよ……。よく言われる「演劇の力」「舞台は演者と観客が一緒になって作るもの」といった言葉を私は今まで話半分にしか聞いていなかったけれど、これは違うぞ、もしかしたら演劇の力というものは(ライブ感とかそういうもののほかに)本当にあるのかもしれない、と思わせられるような体験だった。
 そして数か月後にアーカイブが配信され、何度も何度も繰り返し見るうち、このシーンはなにもコロナ禍だけについて話しているわけではないのでは?と考えるようになった。
 たとえば「君はここに来たかったんだね。(中略)どんな理由であろうと、君の決断を尊重するよ」というセリフ。私は配信でしか刀ミュを見たことはないけれど、何度も劇場に足を運んだりペンラを何本も構えて振ったりグッズや推しカラーをたくさん身につけて愛を表現したりしていなくても見てて良いんだと、熱狂的な支持者でなくても観客として認めてくれるのだと言ってくれているような気がして、幾分か気が楽になったことに何度目かの視聴で気付いた。そもそも「現地で見たことが無いし見る予定もないから、私は”本当の観客”じゃない」と無意識な線引きをしていたことに、その時になって初めて気付いた。2.5次元に限らず、現代の産業にはいわば「信仰」を集めて隆盛するコンテンツがどんどん多くなってきているように思うけれど、そういう「信仰」心の薄い私でも楽しんでいいんだというメッセージなのかなと思うようになった。極端なことを言えば、「刀ミュを見ないという選択をしている人」のことさえ肯定しているのだと思う。これはかなり個人的な受け取り方で、想定されているのは先述したような「現地に行かないという選択を尊重する」ということなのだろうけど、いずれにせよこういうメッセージが公式からここまで力強く提示されることには大きな意義があると思う。
 もうひとつ、『結界は人の心の中にしか存在しない』というセリフ。一見「人と人とを隔ててしまう障壁はみんなの心の中にあるものだ」という否定的な概念とそれに対抗する言葉に聞こえるけれど、同時に結界を張って江戸を守ろうとした天海とその結界をこの国全体に広げて守ろうとした勝海舟、彼らのような人の思いが作った結界についてそのまま語っているとも取れる。「人の心の中にしか存在しない結界」には、『ほころぶ』という言葉に重ね合わされた破綻/花が咲く・開くイメージと同じように、それは人々を分断してしまう障壁にも、大切なもののための堅固な守りにもなり得るのだという両義性がある。この演目において、「想いの力」は志があれば人生を阻む障害は必ず切り拓けるだとかいう、今の時代では困難かつ特異になってしまった夢物語のように単純に美化されてはいない。『線』が障壁になるか結界になるか、プラスにもマイナスにもすべて「想い」が原動力で、守りたいもののために結界を拡張できるかどうかは全て心に委ねられている、分断はいつだって外的ではなく内的な要因によって生まれる。このセリフ、ひいては東京心覚という演目そのものが、線を引いた後に現れる図像だけを見て絶対的な正しさを規定することへの危機感の表明、そして何が正しいのか・何を信じていいのかますますわからなくなった時代に放り出されている私たちへの「心を閉ざさないでほしい。傷つかないでほしい」という懇願で、「どうか生きて欲しい」という祈りなのだと思う。私自身「これからはグローバリゼーションの時代だ、国際協調が世界を作るんだ」と教えられて育った世代で、それなのに蓋を開けてみれば待っていたのは分断の時代、もうわけわかんないよみたいな思いはずっとどこかで感じていた。そういう私にとって、そして「時代の停滞はすべてお前たちに覇気が無く、志が無く、不甲斐ないせいだ」みたいな冷ややかな視線にずっと晒され続けてきた世代にとって、この演目はどれほど温かく身に染みる『肩なら貸そう引き上げはしない』『胸をつく名前も知らないエール』(Additonal Timesより)であろうか、と思う。 この曲が歌われたトライアル公演のこの頃から、刀ミュの姿勢はずっと一貫しているのだと思う。これまでの演目と同じように、東京心覚もまた刀ミュ制作陣による『うたわずにはいられないはなのうた』であり、そして『この世の中に必要じゃないものなんてひとつもない』という大千秋楽カーテンコールでの桑名の言葉のように、うたわれるべきでないうたなどというものは存在しない。改めて、心から強くそう思う。

6.気になる点
「さっき演劇と和睦したばっかりやないかい!!!」ってなりそうだけど、どうしても気になる点はいくつかあるので、それについても書いておかなければならないと思う。
・1部と2部の間のMCで、道灌の名前をイジるのはやめてほしかった。名前を笑いのネタにすることじたいほとんどの場合ものすごく失礼なことだし、名前という「線」があやふやになって苦しんでいた水心子の姿が描かれたあとではとうてい笑えないネタだった(音曲祭のMCでも「それが笑えると思ってるんだったらちょっとびっくりだな」と感じるところはちょこちょこあった。たぶん笑いの感性が合わないのだと思う)
・おそらく観客と重ね合わされているだろう「能面の少女」という役を、女性キャストが演じる意味。女性キャストそれそのものはどんどん起用していってほしいけど、そこには信念や意義が問われると思っていて、それが感じられたかというと正直薄かったと思う。刀ミュは若い女性を応援するコンテンツだというコンセプトは聞いたことがあるけど、そうはいっても男性やそれ以外の性自認のファンだっているだろうし、たとえば(まさに能のように)男性の役者が若い女性を表す面を付けることで「今そこで頑張ってる子」の性別や年齢を限定せず、両義性・多義性を表現することはできなかったか?と思う。厳しい判定になるけど、ステ科白劇の「この演目に不可欠な蛇のような女ガラシャを演じられる役者は七海ひろきさんしかいなかったから彼女をキャスティングしたんです!!!!!!」のような強固な意志は残念ながら感じられなかった。
また、エンディングには一瞬だけ出てくるけど、カーテンコールに名もなきモブ男性の姿はあっても彼女の姿はない。少女=名が残らないけどそこで頑張っている子=観客なら同じ場にいては辻褄が合わないのかもしれないけど、歴史の表舞台に出ることを許されなかった女性というものの反復のようにも感じられて、それはあまり良くない演出なのではと思ってしまった。
・能面の少女をダブルキャストにした意味。ダブルキャストというより、本業が役者の方ではないらしいので、3ヶ月の公演中ずっと出てもらうことはできなかったという事情?(後半に一回だけ出てくる白い着物を着ている少女は別のキャスト?それもわからなかった) いろいろあると思うけど、それよりは勝先生を一人二役じゃなくしてはなのうたに参加させてほしかった感がある。
・勝先生の「ペッ!」、それどうしてもこの状況でやらなきゃいけない演出だった?という心理的嫌悪感の方が勝ってしまった。
・時間遡行軍の影が薄かった。勝先生にペッされたやたらユーモラスなやつとかはいたけど……本作に置ける遡行軍とは、線を引いてあっちとこっちに隔ててしまうもの?今までそういう描写はなかったし、ちょっと取ってつけた感が否めない。むしろ「討つべき敵」という線を引いて時間遡行軍を定義しているのはこちら側ではないのか?

アンケートというものの存在を把握しておらず書けずじまいだったので、これらの意見を伝えるしかるべきタイミングを待ちたいと思います。


7.刀剣男士別・シーン別感想 ※ただの箇条書き

〇シーン別感想
(だんだん大きくなる『悲愴』)(ラジオのチューニングみたいな音)(ノイズ)(泣いているのか歌っているのかわからない女性の声)(サイレン)(車の排気音)(ソナーの探知音みたいなピアノ)(信号機から流れるカッコウの擬音や通りゃんせ)(電車の音)(背景に映し出される横断歩道や高層ビル) もうこの冒頭の演出が良すぎる。この時点で東京心覚のこと好きだった。ここが、東京かつて、江戸だった場所
背景の幾何学図形っぽいなにかが水心子の紋になんとなく似てる
M1 刀剣乱舞東京心覚
ドゥンドゥンドゥンって前奏だけで血が沸く。なんか山車みたいなやつの上に8人乗って出てくると改めて「多いな」ってなる
集合体無機物の自我がぐちゃぐちゃになってるのが好きすぎて初手からずっと興奮してた。彼我の境界がわからなくなってる正秀……可愛いよ
M2 いざ参らん
『居場所がわからねえのは俺も似たようなもんだよな!\ドッ/』付喪神ジョーク、人間にはちょっとレベルが高い(怯え)
M3 ほころび
『私が守ろうとしている歴史は、未来は、守るべき価値のあるものなのだろうか』のっけからめちゃくちゃ思い詰めるじゃん。さすがに心配になる
M4 外の光
三池マジ修二と彰 鬱々とする光世⇔明るいソハヤの構図かと思えばそうじゃないのがいいよね
三百年の子守唄を聞いたことがある「江戸三作」
M5 雨と雲と犬
雨さんのピアスと犬耳をしっかり見せてくれるカメラ ありがとうございます。
ド直球タイトル 移り行く時代は誰が繋ぎ止める、いくらきつく結んでもほどけていく、ほころび
M6 大地とこんにちは
推し(水心子)+推し(桑名)=プライスレス 
名もなき草のくだりで座り込む水心子、溶けたフクロウ(画像略)でしかない アクスタにしてほしい
誰もいなくなっちゃった、道も必要なくなった、閉じられた世界
審神者に答えをはぐらかされて「納得が行っていません」と顔に書いてある表情をする清麿があまりにも良い。『知らない方がよいこともある』て何?(怯え)
M7 要となる城 気付く歌
これから人が集まり寄り添って、果てなき荒れた地に道の開かれる世界
アンサンブル12人全員集結
『築く』『気付く』/『街』『待ち』
道灌と雨さんのデュエット、を複雑な面持ちで見守る村雲、東京について語る水心子、踊り始める能面の少女、すごい人間(?)関係が混線している
『皆旅人』『月日も人も』月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり(ぐぐった)
このシームレスに月光に移行するメロディーが恋しすぎて、アーカイブ配信までの間刀ミュのSpotifyプレイリストに月光と悲愴とピエ・イエスを入れてた
戦闘BGMが持ち曲のアレンジなの好き
M8 咲き誇れ 分陀利華
お坊さんにかごめかごめされる正秀
M9 要となる城 共にある歌
『わしも各地を回ったが、みないくさだ!』『俺だってそんなに変わんねえよ』そうだね……
M10 要となる城 この石の歌
『石』『意思』『遺志』いびつないし
『この立派な石はこの先ずっとここで歴史を支えていく』と歌う道灌を見る豊前、なんだその表情は何その嬉しそうな顔……
M11 遺された志
立派な奴「だった」 豊前が速いのは「相変わらず」なんだなあ
『そうですか。』←わかってない
『風は止まらねえ 川の流れも だから俺は走ると決めた』=刀剣男士の使命も歴史という大河の流れも放棄できないから役割を全うすると決めたのか 豊前
矢を受けた将門公の口から血がごぼごぼと溢れるのが見えるようですごい
将門公の舌ペロは毎回いいんですか!?これ見ちゃっていいものなんですか!?という気持ちになる
将門公に刀向けられてびくつく正秀
仲良くなった刀剣男士にひと思いに殺される、理想の死に方のうちのひとつ
M12 大地とこんにちは リプライズ
『雨は必要』なことを心底嬉しく思っているけど、自分が必要とされることへの渇望には気付けてないひとに、なんのてらいもなく『雲だって必要だよ』なんて言えるのは桑名だけ
M13 次に降る雨
『もしかしたら最上川の流れを早くしたかもしれない』で死んだ涙腺が『次に降る雨はその昔 焼き入れの時触れた水かもしれない』で完全に壊れる それまでの黒々とした虚無に満ちた笑みとは全然違う、存在への肯定を受け取った村雲のあまりにも穏やかな笑顔に毎回泣いてしまう
『ん˝ー!』かわいい
M14 いざ往かん
刀剣男士を操るとかいう何気にヤバい攻撃してくる怨霊公
「江戸の街に現れる7人の将門公を封印し、結界を強化しよう!」っていうレイドイベをFG〇でやったことがある気がする
五月雨の動揺してるのがわりとわかりやすいの好き
なにがどうなってるのかわからないけど、なにかとてつもなくむごいことが起こった時、水心子なら「そんなのひどいよ、ひどいよ」って泣いてくれそうなのわかる。まさにマリオネットの糸が切れたように倒れるの好き
秒で復活する水心子
『そうだね我が主』
M15 江戸(ここ)を守る
水心子に”なんかいい感じの木の棒”を持たせよう!って言った人に金一封を進呈したい
線で結べば五芒星とか六芒星とかになると思った水心子を考えた人に金一封(以下略)
『彼を守るぞ!』とかっこよく言いながらいい感じの木の棒を天下五剣に押し付ける水心子を(以下略)
わざわざ前に出て刀身をかっこよくなぞってキメる水心子(以下略)
あるじソハヤくんがそんな不思議パワー使えるなんて聞いてない
水心子と天海、ほぼ祖父と孫
「ソハヤくん……………………………」と「美形の葛藤と苦悶に満ちた表情は健康に良いな……………………………」という気持ちが同時に来る
M16 全うする物語
急に出てきた水心子に驚かないのは豊前たちの連れだと思われているのか
自然は人間がいなくても美しいのではないかというのはわりと昔から考えていたし読んだ作品からも影響を受けていたことなんだけど、「それを見て美しいと思ったものの心が美しい」というひとつの答えが提示されて私もワン!!!!!!!!になった
『違うなあ』の言い方に色気がありすぎる将門公
新皇を名乗った理由をちょっと照れながら言うけど『他に命を賭ける理由があるか!!』はめちゃくちゃ雄々しい将門公 
M17 はなのうた
将門公なんか二回転してなかった??その衣装で???
かざぐるまみたいに刀剣男士全員歌唱曲になってほしい気持ちと「この曲は名もなき人間キャストの叫びと歌声があって初めて成立する曲やろがい!!」と言う自分が殴り合っている
花の循環を歌う正秀、ミューズ
うん、うんと相槌を打つ清麿、自我がめちゃくちゃになっちゃった人に話を合わせてる感が性癖に刺さる
『愛しいと思う気持ちも歴史を繋いでいたんだ』と言いながら刀工水心子が繋いだ歴史の先にいる源清麿を愛おしそうに見つめるんだけど今これなに見せられてんの?ここが涅槃
あるじ三日月が精神体になっちゃったなんて聞いてない 音曲祭でこれからまた歴史紡いでいこうって言ってくれたじゃん どうして…………
三池はスルーする三日月
「どうやら俺たち江は」の答え、江とお化けは見たことが無いに関係してんのかな
ずーーっと「江戸幕府はどうしたら滅びずにいられたのか」のifの話をしてるソハヤくん
『どんな子なんだろう』と無邪気に語る清麿に『そういうことではないと思うぞ?』と微笑む水心子、完全に幼い息子を見守る父の目をしている
M18 問わず語り
『覚えておいて』『忘れてくれ』『見つけてくれ』『隠してくれ』と対比が続くので最後は「忘れる」なのかと思ってたけど、「忘れ得ぬ」だった 最後だけ対比じゃないんだね「忘れることなんてできない」なのか そうか………………………


〇登場人物別感想 ※敬称略

水心子正秀(演:小西成弥)
映画ハリー・ポッターシリーズのオーディションでルーナ役を勝ち取った女優について、制作陣が「他の候補者はルーナを演じることができたが、彼女はルーナであった」とコメントしたエピソードを思い出す。水心子正秀を演じられる俳優は他にもいたと思う。しかし彼は水心子正秀であった……。キャストが発表されたとき演者さんのSNSはひととおり見に行ったんですけど、小西成弥さん、ツイッターのbioに《表現者》って書いてる(※今は変更されてるようです)んですよね。「俳優」とか「演技のお仕事をしています」じゃなくて、《表現者》。もうそれ見た時に「本人じゃん……」ってなった。だって水心子正秀、もしツイッターやってたら(?)絶対「刀剣男士やってます」って書かない。《太平の世に刀剣のあるべき姿を甦らせる者》とか、《刀剣男士の誇りはここに》とかだもん……カッコの使い方も、【】とか[]じゃなくて《》を絶対使ってるじゃん……””本人””、来ちゃったな……って思った。2部のあのなんかすごいダンスソロのために100時間くらい練習したエピソードも「本人じゃん……」だった。前々から「2.5次元に水心子が出るんだったら新人を抜擢してほしい、公演の間めきめき成長する姿を見たい」と思っていて、小西さんは新人ではないけどある種のそういう「初々しさ(※芝居が初心者レベルとかネガティブな意味ではもちろんないです)」、2.5次元の水心子正秀に外せない要素として求めていた「瑞々しさ」を確かに持っておられて、「彼は水心子正秀だった……」と言うことしか出来ない
小西さんと水心子の言葉だから『傷つかないでほしい』『君の決断を尊重するよ』『結界は人の心の中にしか存在しない』というセリフに、強大でも矮小でもない、等身大の響きが宿ったのだと思う。たとえば三日月が「傷つかないでほしい」って呼びかけたらなんかそれだけですごい””力””を持ってあんまり疑問に思わず従っちゃう(つはもののクライマックスの義経のように)気がする。たぶん三日月ならみんなが傷つかなくて済むようにできちゃうんだけど、水心子は「どうか傷つかないで」ってお願いすることしかできていないんですよね。穿った見方をすれば、ある意味相手に頑張ることを強いていると言えなくもない。それでも、観客がもがく姿をずっと見てきた水心子の心から表出する言葉だからこそ、そこにどんな意図を読み取るかにかかわらず、確かに血肉の通った言葉として届くんだろうなと思う。なんかそれも「三日月に出来なくて、水心子に出来ること」なのかもなと思った。東京心覚、水心子の演技に説得力が無ければ全てが台無しになるなかなかに恐ろしい構造の舞台なので、小西さんがカテコで重圧に押しつぶされそうだったと語っていたのも頷ける。あそこで「正直に言おう」ってできるのも小西さんと水心子だったからで、すごいな……彼は水心子正秀だった……
しかしまたこういう見方もできる。水心子は一見自分で「愛しいと思う気持ちも歴史を繋いでいたんだ」という答えにたどり着いたように見えるけれど、水心子のその答えは将門公の「理由」と非常に似通っている。葵咲本紀を見て、信康が物部になったのって信康が生きてないと秀康を正気に戻せないからなのかな?と思ったのだけどそれと同じで、すべては三日月の思惑(『いつかそう問いかけてくる者が現れるから答えてやってくれ』と将門公に言っていた)通りなのかもしれない。もしそうなのだとしたら、水心子のこれからの活躍がますます楽しみになった。新々刀の真価はまだまだこんなものじゃないよなぁ水心子!太平安寧の世に抗う刀だもんなぁ!?(それは清麿パート)(でも『我が誇りあるべき姿をひたむきに追いかけ』『太平安寧の世に抗う刀ささあ行くよ』は親友パワーで繋がってるから)三日月を救えるようにこの世界はなってないとか諦めてる場合じゃねぇぞ!あの古刀に一泡吹かせてやろうぜ!!みたいな気持ちになる。
わざわざ戻ってきて勝海舟に「いい刀だな!」ってドヤ顔するのパーフェクトカワイイお前が一等賞一生愛すで賞優勝なんだけど、たぶんゲームの水心子だったら「その刀、抜いて戦わないのかヽ(`Д´)ノプンプン」みたいになると思う。刀剣男士の水心子は「刀工水心子の業績は『古刀みたいな刀を作った』ことよりは『鍛刀法をまとめてオープンソース化し、刀剣の歴史を途絶えさせなかったこと』にある(※刀剣乱舞wikiの受け売りなので事実かはちょっとわかんないです)けど、それを自覚できておらず、ただひたすら古刀という理想を目指して奮闘している(回想で南海先生の言う「理想を追い求める刀工の姿勢が」はおそらくこれを指している)(その業績のすごさを理解してありのままの自分を受け入れるのが極修行なんだろうと予想している)」キャラだという理解なので、特にほころびの歌詞で「私の役目 けして途絶えさせぬ 刀の誇り」と歌っているのを聞いてあ、もうそれはわかってるタイプの個体なんだ!?と思った。刀ミュのキャラへの解像度が高すぎて走っちゃっている……。そのあとに「その意味追い続け」と続くので、完全にわかってるわけじゃないだろうけど、そういう個体なので、実用で使われなければ意味がないだろうと怒ったりはしないのかなと思った。勝先生の「戦わずに守る」という信念を目にした後でもあるし(「抜かれない守りのための刀」は三池にも当てはまるモチーフだと今気づいた。つくづく重層的な作品だ)
刀剣乱舞の水心子パートはどんなんだろうと出演が決まる前からずっと妄想してきたけど、『我が誇りあるべき姿をひたむきに追いかけ』は刀ミュの靴舐めても良いと思った
諸説紛紛とか四字熟語を使いがちなのあまりにもわかる
「必ずいつかまた巡り逢えるから」は水心子・ボーイミーツガールがしぬほど似合う刀剣男士で賞・正秀にしか言えないセリフ。ボーイミーツガールが必ずしも賛美されない風潮はあるように思うけど、やりたかったのは正直わかる。水心子正秀、終身名誉ボーイミーツガールのボーイだもんな

源清麿(演:佐藤信長)
ふわふわのわたあめの擬人化で年下の姉(弟)の付喪神(打撃62)。『太平安寧の世に抗う刀ささあ!!!!!!!!!!!(打ち合わずに隙を突く。それが僕の戦い方さ)行くよ~(まろやかボイス)』好きすぎ。三次元の人間で清麿くんを出来る人がいるとは思っていなかった。なんのリップとグロス使ってるのか教えてほしいと思ってたらまさかの色なしリップ使用との情報に戦慄。殺陣で帽子をクイってするのめちゃくちゃ清麿。たまにものすごいド低音響かせててビビる(はなのうたの『今かもしれない』の低音はずっと水心子だと思ってたのがいやこれ清麿だな????って気付いたときの衝撃)
水心子が「本当のことなんか誰も覚えていない」と清麿に言うシーン、刀工清麿が40代で自殺した理由は一般的には「深酒が祟って作刀できなくなったのを悲観して」ということになっている(清麿の花見ボイスはおそらくそれを踏まえている)けど、遺書を遺したわけでもないので、なぜ自殺したかなんてたぶん本人以外にはわからない。本人もわからないのかもしれない。「なぜ彼は死んでしまったのだろう」という理屈をつけたくて、後世の人がそう結論付けただけのことなのかもしれない。そんなことを考えると、わからないことをわからないままにしておくやさしさというものが確かにあるんじゃないかと思わされる。

五月雨江(演:山﨑晶吾)
『雨に濡れた子犬があなたのために素晴らしい一句を詠みましょう、あなたのためだけに』一生裏切らない、人間より寿命の長い犬。最高。し、しのぶれど色に出でにけり我が言葉は?!?!しちゃうの!!? なんかあまりにも難しそうな曲調を難なく歌い上げるのでこ、こいつ歌うま族だ!となった。暗いところから出てきて闇討ちしたり足の甲に刀突き刺してぐりぐりやったり殺陣がなにげにエグい。カテコの刀剣乱舞で戦闘立ち絵完全再現してて度肝を抜かれた。

村雲江(演:永田聖一朗)
声帯が江口拓也の系譜。すっごい刀クルクルする。正義とか悪とかについて言及する刀剣男士がそもそも彼以外にあまりいないので、誰よりも気にしていることがわかる子。公演前は刀剣男士の誇りを重視する水心子とこの戦に正義があるのか疑う村雲とで真向から対立することになるのかなと思ってた。『雲に隠れたってなにも変わらないから』とアルカイックスマイルを浮かべる瞳の奥に、黒々とした底なしの絶望が垣間見えて震えた。
五月雨は彼が愛してやまない「歌うこと」や「季語」を『雲から流れ零れ落ちる雨』になぞらえたり『移り行く季節は雲となり雨となる』と歌ったり、ずっと「あなたが大切ですよ」と伝えているんだけど本人には伝わってなくて、桑名に『雲だって必要だよ』と言ってもらったことでやっと自分を大切にすること+相手の好きなものも大切にすることを学んで『そうだったらいいな』と願えるようになる、それがすごく良いなと思う。ゲームでの二振りのまるでティーンエイジャーのようなニコイチ関係は微笑ましくも、永遠にふたりだけの閉じた関係ではいられないんだろうなと思っていたので、第三者との響き合いによって大切なひとからの愛情をちゃんと受け取れるようになる、というのがすごく好き。あえて豊前+五月雨、桑名+村雲を取り合わせたのがすごい。大千秋楽配信で永田さんが指摘するまで最後以外会話してないのまったく気が付かなかった

豊前江(演:立花裕大)
パライソでなにかがあった。かの有名なつつきすぎボイスからして人間の営みに強い関心をもつタイプの刀とはとても思えないので、絶対にパライソでなにかがあった(だいたい予想がつくような気はする)。みほとせの大倶利伽羅みたいに人間と関わったことで在り方が変質してしまう刀剣男士かなり好きなので、期待して見ます。
なんで「名もなき草」で自分が呼ばれたと思ったの?(怯え)
「他7振りは全員名乗ったり自分の名前を言うシーンがあるのに、豊前だけない」という指摘を踏まえて見返してみたらほんとうにそうで震えた。
『風を切り走るは目にもとまらぬ音速の剣(字余り)』好き。

桑名江(演:福井巴也)
「放棄された世界でも地道に耕す桑名江」「水の循環を語る桑名江」「放棄された世界に食べられない花を植える桑名江」はい、死んだ。桑名江に看取られることで循環の一部になりたいと願ってやまない審神者、即死。ありがとうございました。成仏します。私のかみさまがそこにいた。名もなき存在でも、ここで生きたことを桑名江が知って、覚えていてくれる。循環からなにが生まれるのか楽しみに待っていてくれる。魂の救済。鍬やツルハシを軽々担いで走り回る膂力が人間じゃなさすぎて最高。大地の祝福を感じる。
土食べるやべーやつじゃんwwwみたいな受け取り方を審神者の中でされがちなのあんまり納得いってなかったんだけど、土を口にいれるのは土の状態を知るためで、それだけ農業に心身を捧げているキャラなのだということをちゃんと理解してくれているのがマジでありがたかった。しかし傍からみればぎょっとするような行動なのは間違いなく、変わり者だねぇといわれて「/うーん、まあ、そうなのかな」(自分がどう変わっているかは自覚がないが、変わり者なのはなんとなく把握している)というさじ加減が良かった。
殺陣の難易度が高すぎる男士その1。ゴーグルしてるけどかなり見づらいんじゃないかな
よく両手を広げ”すべてを耕す”ポーズをする。

ソハヤノツルキ(演:中尾暢樹)
リキッドアイライナーのCMモデルかと思った。殺陣も2.5出演も初ってマジ??よくあのかぱかぱする胴鎧を御して殺陣やったな……
水心子と能面の少女/三日月/歴史上の人物たちがこの演目の横軸とするならば、ソハヤの江戸幕府存亡への葛藤と天海への屈託、そして彼を常にそばで見守り、たしなめ、時に未練をそっと共有する光世との絆が縦軸だと思う。ソハヤの隣に光世がいてくれてよかった……。江戸の街に響く大砲の音に「たーまーやー!……ははッ(自嘲するような笑み)」で毎度限界になってしまう(慶応甲府にぶん殴られた記憶も新しかったので余計に……)

大典太光世(演:雷太)
総合力が突出している。その上HBBができる。無敵なのでは?
殺陣の難易度が高すぎるを通り越して人間が動ける衣装じゃないのに階段のそこそこ高い位置からジャンプで飛び降りてて???????になった。
演者さんとキャラのギャップがありすぎて、「ドラマや映画のメイキング映像でダークな役柄の俳優が衣装のままお茶目ムーブしてるのを見たい欲」がめちゃくちゃ満たされる。

太田道灌(演:有馬自由)
今回の歴史上の人物枠で一番好き。びっくりして「うおおおぅ」ってなってるシーンがわりとあるのがかわいい。理想のホワイト上司。緑のお着物がよくお似合いの糸目ナイスミドル。
「己の愚かさにも向き合うことになるがの」は山吹伝説のことなんだろうけど、なんかそれだけじゃない気がする意味深なセリフ…… 
旅に憧れるような素振りがあるのは五月雨‐芭蕉との共通項という演出?

天海僧正(演:三上市朗)
たぶん刀ミュで一番強い。袈裟がやたら着ぶくれしてたのでこの後早替えでもするのかなと思ってたら勝海舟ででてきておったまげた。
ソハヤたちの正体に勘づいていたり江戸にこのあと平和な時代が続くことを知っているようなそぶりだったり、本当に何者だったんだろう登場シーンの背景に三日月が浮かんでいないので物部なわけではないと思うんだけど……「人も百歳生きれば付喪神=刀剣男士と同じように未来を知る力を得た」とかだろうか?

平将門(演:川隅美慎)
『荒地に咲く一輪の花この心捉えて離さぬとは いい度胸だな』っていう大ゴマで将門公がアップになったTL漫画広告を見たことがある気がする。うまぴょい。殺陣の迫力がすさまじい。

勝海舟(演:三上市朗)
勝先生~~~~~♡♡ ゲームの水心子正秀のセリフには勝海舟のかの字もないのに勝先生呼びに一ミリの違和感もなくてすごい。できるなら勝先生(西郷さんも)にもはなのうたを歌ってほしかった。分身の術を会得してもらわないと無理だけど……
「貴方が守ろうとしたものはなんだ?幕府か?それとも」「バカいってんじゃねえ!そんなせせこましいもんなんかじゃねえよ!」のくだり、ソハヤと光世にはわりと聞き捨てならないと思うんだけど、そこで食ってかかったりはしないけど「そんなせせこましい」にわずかに反応したり、じーーーーっと勝先生を見つめて静かに去る光世……という表現、出色だと思う。

アンサンブルの皆さん
今気付いたけど西郷さん役ってアンサンブルの人だったの??????????????
というか12人しかいなかったの??????12人で武士(平安時代)と時間遡行軍と人足と西郷さんとお坊さんと武士(戦国時代)やってたの????衣装替えとかいろいろなものがめちゃくちゃ大変だったのでは???やば……


まとめ

「ありがとう、東京心覚……この世界の片隅にわたしを見つけてくれて……

 

( 2022/3/7追記の日記のようなもの)

・オダイバありがとう!水心子と清麿が親友であるという事実が全世界に知れ渡っちゃったな…最高でした。

・CDシングル・アルバムのデザインが神すぎて発表されるたびに発狂した。後日追記するかもしれません。シングルは買うつもりなかったのに気づいたら戦闘ver.全種買ってたしアルバムは発売翌日に追い限定盤B+通常盤した。

・直接的なきっかけではないけど、「乱舞祭でてんえどに会えるまで何かしたい、そこで頑張っているひとでありたい…」という思いが数ヶ月前から始めた筋トレの強力なモチベのひとつとなっている。5/8までにどこまで行けるか、楽しみなことが増えました。

 

以上になります。長々としたどこまでも個人的な文章でしたが、読んでくださってありがとうございました!